保坂新の戯言集

どこかの誰でもないアンポンタンがどこかの誰かである人が作った作品にうだうだ一丁前に評価を下すブログです 話半分に流していただければ幸いですTwitter:@chuhri0703

【戯言】アインシュタインより愛を込めて統括記事

本記事を読むにあたり先に下記の記事を読んでおくことをお勧めします。

またアインシュタインより愛を込めて、アインシュタインより愛を込めてAPPLOCRISISのネタバレを含みますご注意ください。

 

chu-linozaregoto.hatenablog.com

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0.初めに

この記事は先日アペンド版(という名の完結編)を発売したアインシュタインより愛を込めてについて語る記事である。

筆者はこの作品が初めて情報が出たころから心から楽しみにし続けた。

2018年年末のコミックマーケットにて月の彼方で逢いましょうとともに掲載されたインタビュー、その一年後に公開されたPV、ティザーサイトの公開、いずれのタイミングも追いかけてきた。

期待と不安、そしてこの作品を恋×シンアイ彼女のようにしたくないという馬鹿な自負と共に追いかけ発売された。

結果としてこの作品は賛否両論というにはあまりに否定的な意見で埋め尽くされた。原因はいくつかあるだろう。世界観の全てを書き切らなかったこと、明確なハッピーエンドを用意しなかったこと、戦闘シーンがあまりに雑であったこと、Hシーンが少ない上に雑であったこと。

後者2つについては筆者も非常に同意できる点であった。だが前者2つについては重要視する気持ちはわかるがそれをマイナスと見る感情がどうしても理解できなかった。

結果としてその悲しみに狂った。自分で書いた感想記事に意味がないのだと改めて思い知らされた。何かできるなんて烏滸がましかったのだ。そうやってこのブログを更新することをやめてしまった。

その数か月後の年末年始にアペンド版の発表があった。嬉しかった。だがそれ以上に怖くもあった。またこの作品が傷つけられて、それを眺めることしかできない悔しさを味わうのかと。そうやって9/24までを情報量は少ないとはいえ1年前とはほんの少しだけ違う思いを抱きながら待った。

そして来る9/24 0:00 DL版の発売と共に休みを入れることなく走り抜けた。気持ちは1年前の終わらせた瞬間と同じだった。

この作品が心から大好きだと。

以上からわかる通り筆者はただの信者である。

ここに書かれている言葉は所詮は戯言以下の何物でもない。

ただ思ったままの言葉を感情のままに書き連ねた自己陶酔も激しい何かでしかないだろう。

それでもここに残す。

この文が誰かに読まれ、アインシュタインより愛を込めてという作品を見つめなおす一助になればよい。そう心から願う。

1.愛内周太について

この作品を語るうえでまずは彼を理解しなければならないだろう。

この業界を見てもここまでひねくれた主人公は過去を振り返っても多くはないだろう。

この作品の評価を分ける大きな境目の一つにこの主人公を好ましく思えるかどうかは大きいと思う。少なくとも序盤、そして本編での彼はヒーローではない主人公としては不完全な存在だ。

誰とも関わらず、一人で掲示板に対して愚痴をこぼし、ヒロインに対しても尊大な態度、その中で失敗してとてもではないが格好いい存在とは言えない。

個別ルートにおいてもそうだ。彼は何もやり通すことはできていない。佳純においては無事に帰ってくることができず自分さえも失い、忍ルートでは傍にいるという約束を守れず、唯々菜ルートでは自分を犠牲にすることでしか彼女を救うことができなかった。特に唯々菜ルートでは結局彼女は彼を救うために彼が行ったことを台無しにすることになる。これは結局彼が彼女に幸せの形を押し付けたことで発生してしまったのではないだろうか。結局彼は何かを成し遂げ切るとかはなかった。

なら彼は何だったのだろうか。

鯨という地球外生命体に全能になる力を権利を渡されて、人に裏切られて、大切な父親さえも奪われたことで何もかもを憎み、そして世界を拒絶しつつもそれでも世界を受け入れたいと心では思っている少年、これが愛内周太であったと筆者は思う。

何故か、それは彼が本当に世界を憎んでいるのなら行わないような行動がいくつか見られる。掲示板でマウントをとるような行動をしつつも自分の寿命を意識させられた直後の弱音は特に象徴的だ。彼は憎んでるはずの存在に肯定されたいと思うような言動を多く口にしている。散々天丼芸にされた2位ネタにしても1位となり続けることで自分の存在を肯定してほしいと言う思いの現れだったのではないか?

そしてヒロインと結ばれる時にはさらに別のものが見えてくる。ヒロインルートにおける活発にヒロインを救おうとする姿だ。これは恋愛を扱うゲームなら当然と受け入れられるかもしれないがよく考えて欲しい。こいつそんなことするように見えるか?

ここに共通における彼のクズでどうしようもない人物像とのズレを感じられるかが一つめの大きな分かれ目だったと思う。

筆者がこれらの要素を特に強く意識したのは忍ルートでの自分の失敗で店をこっそり閉じようとしていた忍に対して口にした言葉である。彼はプライドが高く、失敗を認めたがらない性格のように見えていた。なのに口にしたのは自分の失敗を隠して責任を全て負おうとする忍への追及の言葉だった。責任を負ってもらうということは守られる存在としか見られていない。対等に向き合って信頼してくれていたと信じていた忍に守られる存在としてしか見られていなかった、つまり裏切りであることへの怒りだったのだろう。そんな感情を他人にぶつけるようになれるほど彼は彼女との繋がりを大切にしていたのではないだろうか?

このルートは他の2ルートと大きく違う部分が存在する。それは明確に愛する存在が生まれることである。絶対に彼女の元に戻りたいと思う強い思いがあった。だからこそ自分の命も守り切り時間を代償にしつつも日常に帰ることができた。

他のルートでも彼は捻くれながらも他人であるはずの少女達のために必死になる。佳純ルートでは自分を無くしてしまってもそれでも心に残った欠片のような思いを胸にもう一度一緒に歩いて行こうとする。唯々菜ルートでは幸せでいて欲しいと願った少女のために全てを投げ出す。そこに愛はなかったと言えるのだろうか?

個別ルートの役割が何だったのかと言われたら間違いなく周太の捻くれていてもそれでも誰かとの繋がりを捨てきれない姿の描写だ。愛なんてどうでもいいと口にする割には他人のために必死になる彼の人物像の形成こそここまでの役割だった。そしてロミルートでは更にその側面が強くなっていく。

このルートにおいて特に強調すべきなのは最後の展開ではなく同棲している日々だったと断言してもいい。事実この同棲パートのアンサーとも言えるようにAPPOLOCRISISでもエンディングを経た彼の成長を見せる日常シーンが挿入される。

この同棲パート、彼が閉じた世界にいることを強調するようになっている。多言語によるディベートや小説をくだらないと口にする姿はその本質に他者への興味の薄さを意味しているだろう。だがここでポイントになるのはロミの勧めで小説を読み始める姿だ。それをつまらないと言いつつも確かに興味を持ったのだ。ここでもやはり彼の繋がりを求める姿を示唆している。だが結局彼は他人と歩むのではなく自分を犠牲にすることを選ぶ。この時点ではロミは守ろうと思う存在でも一緒に歩もうと思える存在ではなかったのだろう。

そうやって描かれてきたここまでの愛内周太の人物像のズレを補正していくのがグランドルートだ。前半では彼にとって最大の人生の転換期になってしまった夏が描かれる。この夏の彼だが相変わらず傲慢である。1位を取ってドヤ顔している。だが確かに違うことは他人を信じることがいとも簡単にできている。自分を1位の座から引きずり落したロミを受け入れ尊敬し、父親の罪を晴らすために自分がテレビに出て説明すると言い、顔も見たことがない叔父に小笠原諸島まで会いに行き、友人のために真剣に悩むことができる。

ここまで読んだらここまでのずれが理解できるようになる。彼は元々他人を受け入れることができる人間だったのだ。それが大切な父親の喪失という形で裏切られることで信じられなくなり、結果としてすべてを憎むようになった。

しかしそれでも彼は彼だった。たとえ憎んでいたとしてもそれでもすべてを憎むことができなかった。だからこそ真理と日常を天秤にかけることができるようになったとしてもそのどちらも選ばないということをできたのだろう。事実これはΣによって口にされている。真理よりも大切なものの存在を捨てきれないからこそ本来抗えないはずの欲望を乗り越えることができた。それが愛内周太という少年だった。

以上より愛内周太は

元々は他人との交流に抵抗もなかったが過去の出来事で自分のセカイに閉じこもり、世界を憎んで他者との交流を口では拒みながらも孤独でいることを恐れて繋がりを求める少年である、と言えるだろう。

本作においてこのクソめんどくさい性格をした少年の人物像を見誤るとただのイキリ自称天才がよくわからない世界観の中で振り回される物語にしか見えないだろう。この作品は愛がテーマの作品ではあるが、彼へ親愛をもって接することができなくてはいけないとは非常に面倒な作品だ。

新島夕先生の過去作においても似たようなキャラクターはいた。未来を定められた中で葛藤する河野初雪や最後まで本心を口にせず、他の要素から何を想っていたかを測定していくことしかできない姫野星奏、Summer Pocketsにおける鷹原家の皆様方もそんなそんな存在だった。出来事ではなくその出来事にどのような表情をして何を口にするか、この部分を重視していくことはかなり重要な点である。

2.科学特捜部の存在意義

ではそんな彼が結成した科学特捜部とは何だったのか?

グランドルートではほとんど関わってこない。ただの共通パート要員だ。じゃあいらないのではないかとも思える。

しかし今作において彼女達は必要不可欠な存在だ。それは何故か?彼女達は日常の象徴として描かれているからである。

ここでノベルゲーにおける共通パート、ひいては日常シーンへの私見を語ってみたいと思う。人によっては単調でつまらないものだと口にされることも多い要素ではあるが物語において必要不可欠なものだと思う。理由は簡単で最後の展開がどうであれ物語の結末ではその日常を受容していくか、捨てるかの選択が本質的に存在する。例えばノベルゲーにおいてキャラクターに主眼を置いた作品においては出会い、恋をして、二人から一組になるまでを描き、その中で幸せになっていく二人の日常を受け入れ、未来に歩んでいくことで終わることが大半だ。そのためエピローグが結婚式や子供との会話で終わることも多く、それは明確に二人は幸せに暮らしましたで終わるのは偶然ではないだろう。その日常を受け入れるならば幸せであってほしいと思うに決まっているのだから。

逆に日常を捨てる物語というものも存在する。これらの作品は日常よりも一人のヒロインの幸せを選ぶ際に使われる。所謂メリーバッドエンドと呼ばれるものはこのような作品に多く、新島夕先生の恋×シンアイ彼女は良い例だと思う。幸せになれる可能性をすべて捨て、それでも1人の少女に想いを伝えるためにすべてを費やした少年の物語だ。これらの作品は2人のセカイに閉じこもることも多いが、セカイに閉じこもるヒロインを世界に引きずり戻す物語でも使われる。恋×シンアイ彼女や今回のAPPOLOCRISISは後者であったと考えられるがそれは後述しよう。なんにせよこのタイプの場合犠牲が確実に存在し、生活圏であったり、寿命であったりと様々である。

では今作はどのような作品だったか、本編に限れば前者の日常を許容していく物語だろう。そして帰るべき日常を象徴するのが科学特捜部の面々だ。HPの自己紹介文を読めばわかるが主人公はその面々にどうしようもない評価を下している。そんな印象を持っていた彼女達と日常を過ごすことでその場所に居場所を見つけていくのが共通パート、そしてそれを見失いながらももう一度掴みに行こうとするのが個別ルートとなっていた。

彼自身口ではつまらなそうにしながらもいつの間にか誰よりも熱中してその居場所を心地よく思う描写は多く存在しているのは前述でも語った通りだ。帰る場所がなければ人は自暴自棄になる。何を失っても帰りたいと強く思える場所があるかどうかは大きく、これがあるからこそ忍ルートでは無事に日常に帰還することができた。恐らくロミにとって一番理想的な結末となったのが忍ルートだろう。何せ非日常の存在も消えて、日常の中に帰っていくことができたのだから。残りの二つについては彼女自身が見せる表情からも理想通りに行かず、それでも非日常から離れられることを祈るような言動をしているため、やはり日常へ帰っていくことを理想としていたのかもしれない。ここはAPPOLOCRISISプレイ後でないと見えにくかった部分だ。

時間や能力、そして記憶を失ったとしても日々だけは続いていく。物語の終わりの時点では確かにハッピーエンドでなかったかもしれない。だが日々はそれでも続いていくのだ。その中で幸せを見つけることができるかもしれない。もしかしたら失敗で悲しみを抱くかもしれない。ただ物語になるだけのたくさんの困難を背負った彼らならきっと乗り越えて幸せになるのだろうと信じてみてもいいのではないだろうか?新島夕先生はとある同人誌のインタビューで以下のような言葉を残している。

月並みですが、「つらいことの先にしか、本当に良いことは待っていない」

という言葉を、皆さんに送りします。

辛くない場所には誰だって入れるんだから。誰も見たことのない景色を見たいなら、

辛い目にあって冒険しないと、ダメってことですね。

まあ、冒険するもしないも、人生ですが。

AVG Sorits Vol.3より

物語のモブではなく主要登場人物として活躍する、とりわけ主人公とヒロインというポジションを得ることになった人達には多大な冒険という名の困難を降り注ぎ続けるのが新島夕先生のシナリオだ。そして物語を終えてその冒険が終わったのなら幸せが待っているのだろうと思わせて終わらせることが多い。この幸せ部分を書かないからこそ散々叩かれまくっている気がしないでもないがそれは語るに無粋という奴なのだろうか。物語は終わっているのだから語る口無しということなのだろうか、なんにせよこれまでは書いてこなかった。または書かせてもらえなかったことは確かである。

そんな幸せな日常を生きるための場所として用意されたのが科学特捜部という居場所だったのではないだろうか?事実again ageinで彼が5年ぶりに帰ってきた場所は彼女達との居場所だったのだから。もしそこまで思い入れを持っているように思えないとしたら失策だったと思うが、他の人とのやり取りをみると心では大切に想っていたのではないかと思える。

3.アインシュタインより愛を込めて 本編とは何だったのか?

本編についてまとめよう。アインシュタインより愛を込めて 本編はどういう物語だったのか?これは簡単である。

とある理由で世界を憎んだ少年が世界に戻る物語だ。

世界という言葉の使い方については上記にリンクした過去記事を参考にしてほしい。この記事上ではセカイという言葉に対応した「多くの人が生きる集団」という意味で使っている。

前述したとおり愛内周太は世界に裏切られたことでセカイに引きこもり、それでも世界に受け入れられることを望んでいる少年である。さらに彼の中にある力は世界を滅ぼすことができるものでもあるので世界を否定することになればこの世は終わる。その結果多くの非日常な陰謀に巻き込まれて冒険の中に投げ込まれてしまう。その中で彼が世界を拒絶することも、されることも避けようとし、世界の中に戻れるように駆け回るのが有村ロミという少女だった。この作品に関する記事で新島夕先生はラピュタっぽい...?という風に表現していたがこれは終盤の空に向かって世界と主人公を救うために駆ける姿のことを意味しているのではないだろうか?ということでこの作品は愛内周太を救うための物語でしかなかった。故にヒロインとの恋愛は非常に薄味である。そもそもこれは恋愛を楽しむゲームではなく主人公が世界に戻りたいと思えるようになるまで有村ロミに助けられながら生き続ける物語だ。所謂テーマ性を重視する上で恋愛描写や世界観の提示などを行わずに主人公がどのように成長していくかを描く物語である。そしてその結果最後まで描かれなかったものが確かに存在した。それは有村ロミという少女は何者だったのかという部分だ。確かにこれは主人公の物語を描くうえで必要がないかもしれない。だが彼女何を想っていたかを言葉にされない限り二人で世界に戻ることはできなかった。故に本編は彼女がどこかに行ってしまったまま終わってしまうのだろう。ただ彼が彼女の隣に自分の居場所を見出しているのならいずれ迎えに行くのだろうと想像がつく終わり方はしている。そしてその物語がAPPOLOCRISISという物語だった。結末は最初から決まっていたのである。

4.有村ロミという少女について

APPOROCRISISについて語る前に彼女のことを整理していこう。

本編とAPPOROCRISISを読み切ればいかに彼女が非日常の象徴であったかがよくわかる。そもそも彼女自身は当初は科学特捜部に深く関わろうとしなかったのも日常の象徴となるべき存在であったその場所に自分が居てもいいはずがないという考えもあるのだろう。日常シーンでも深くメンバーと関わろうとするシーンは少ないうえ、本編ではどのルートでも疎遠になる。しかし周太を日常に戻すための手助けをしてくれるのが彼女だ。唯々菜ルートではその先が描かれることはなかったがもしかしたら彼女が助けてくれているのかもしれない。そして選ばれたときには自分がいてもいいのかという思いから傍にいることを選ぶことができない少女だった。よくよく考えると恋×シンアイ彼女の姫野星奏と同じだ。隣にいるためにはいてもいいと思わせないといけないという非常にめんどくさいヒロインを量産するのが大好きなライターである。

ところで彼女についてはAPPOLOCRISISにて幾つかの設定が出てきたがその中には恐らく後付け設定だろ思われるものもある。アンドロイド設定については正直本当に最初からあったかは実は怪しく思っている。そもそも彼女は本当に母親のために生きようとしていたのだろうか?その思いがあれば本当に本編終盤で死を選ぶような行動を取るとは思えないのである。勿論彼女が死ぬことで比村茜が目を覚ますということを理解していたからという可能性もある。だがどうしても母親に対して口にした言葉は本編での彼女との像が結びつかない。ドラマ的な演出のために強調したのかもしれないがこの部分については正直断絶がある。

とはいえ断言できることはある。彼女は愛内周太を愛していたということである。下手をすれば身内よりも、世界よりも大切に想っている存在であり、そのために自分も犠牲にできる存在だ。そして自分さえも犠牲しようと思えたほどの存在で彼のためだけに生きてきたと過言ではないだろう。姉というべき存在であったミコと比べて自分の役割を全うできず、母親には存在を否定されるばかりな中で自分の存在を肯定してくれる存在ならもしかしたらそう思えるのかもしれない。なんにせよ作中の誰よりも強く彼を想い続けたのは彼女だったと言えるだろう。

APPOLOCRISISで公開された情報を簡単に整理しよう。

・瀕死の比村茜の魂から生まれた二つの魂を片割れを宿した少女

・もう一つの魂は彗星機構のリーダーであるミコ

・ミコが父親の理想を体現する役割を持つ一方ロミは母親の理想を体現するための存在

・母親にとって理想が望みではなくなっていたことから存在を否定される

・幼少時代に出会った愛内周太に救われ自分の存在を肯定される

・愛内周太を日常に戻すために生きる

・最後には自分も彼の傍から消えるつもりだった

ミコは人間臭い失敗を繰り返しながらも父親である須郷の理想を体現し続けていた。しかしロミは母親の理想に答えることはできなかった。存在を否定されながら生きて、そして肯定してくれた周太のためだけに生き続けてその身を散らす。好きだからこそ傍に居てはいけないと思ってしまう非常にめんどくさい少女である。

そんな彼女が傍にいてもいいと思えるほどの物語が今回のAPPOLOCRISIであり、上記に挙げた新たな設定を並べることで傍にいられない理由を強化され、それでも彼女に手を伸ばすために周太が必死になるまでの物語とそのエピローグが描かれた。

5.APPOROCRISISとは何だったのか?

ということでこの物語は何だったかは簡単である。

APPOLOCRISISは少女が少年の隣で生きようと思えるようになるための物語だ。

本編中に新たに登場したミコ、野上の二名は何を象徴するために存在したかをまずは考えよう。彼等は本編では明確な敵として描かれ続けた存在だ。父親の死のきっかけの存在であり、本来なら受け入れざる存在だ。しかし共通パートでは科学特捜部の面々と同じように活き活きと描かれている。特にミコについては本当に本編のラスボスだったのかと疑いたくなるほど馴染んでいる。宿敵であったはずの存在も日常に受け入れることができ、そしてロミとの同棲パートで描かれるとおり本編では決して見せなかった小説への興味など他者への興味を持っている姿が強調される。本編を経て日常の中に帰った彼の成長した姿が描かれたのだ。もしかしたら幼少時代に悲劇に出会わなければこのようになっていたのかもしれない。そんなひねくれているけどちゃんと他人と向き合える少年だ。そんなどうでもいいと言いながらも相手に向き合うことができる少年の成長を描くために今回登場したのではないだろうか?もちろん彗星機構の設定の開示という意味もあるだろうがミコが日常を楽しみながら生き、そして野上とも向き合えるようになっている姿を描くという意味でも存在していたと思う。

孤独なセカイから彼女のいない世界で生きていたのがAPPOLOCRISIS開始当初の愛内周太だ。だがここまででもまだロミが隣にいるためには足りない。

上述したロミの隠された過去を新たに明かされることでどうして彼女が周太の傍で生きられないと思ったかが描かれる。それに納得がいかないかどうかは置いておくにして彼女にとって深刻な悩みだ。そもそも彼女自身が非日常の存在であるからこそ一緒に生きてはいけないと考えているのでこの紐をほどき切らなければない。それを行うための覚悟と周太が軽んじてきた他人との縁による集大成がエピローグでは描かれた。こちらはこの後の章で後述しよう。

なんにせよこのAPPOLOCRISISは本編とは全く違うものを描くために存在していたと言えるのではないだろうか?本編は愛内周太のために、APPOLOCRISISは有村ロミのために作られた物語だ。他のヒロインはどうしたと正直思うところがあるが有村ロミという少女から作られた物語である以上仕方ないのかもしれない。最初からアペンド版を出す予定だったのかも不明だ。ただ確かに言えることはこの二つは別のテーマを扱った作品だ。だからこそこのような形になったのではないかと思うのだ。故に本編にAPPOLOCRISISの内容を入れるのは正直あり得なかったと思う。難しい問題だ。だがこういう形はアニメにおけるテレビシリーズ+劇場版のような構成は時間の経過による感情の変化だったりそれを待つまでのワクワクなども合わせて面白い試みだったのではないだろうか?全てが全てこのようになって欲しいとは思わないが今後もこんな構成になってもいいのではないかと今作を読み終えて思った。

6.エピローグに寄せて

ではエピローグについて語らせていただく。

様々な要素が描かれ、思っていた道筋とは全く違う帰結ではあったとはいえ筆者は本編発売直後からもしこの先が描かれるとするならばこのように周太とロミが一緒に生きる道を選ぶ以外にないだろうと思っていた。彼は本編で他の人を受け入れることができるようになっていた。他人のことを所詮はテレビのタレントのような存在としか思ってなかったはずの彼がだ。日常に帰ることができ、そのつまらない日々をそれでもいいと思えたのだ。ただそれでもロミは隣にいなかった。だからこそもし彼女を連れ戻すことができるのなら愛内周太という少年以外にいないと1年近く思っていたのだ。エピローグはそれが形になったと気づいた瞬間に涙があふれた。誇張表現でもなく大泣きした。

このエピローグ、語る中でこの少女は比村茜か有村ロミかどちらかわからなくなっていた。正直直前まで筆者は比村茜だと思っていた。たとえ夢の中の存在でもその日々を生きた欠片は心の中に残っているというオチだと。それでも受け入れられたかもしれない。でもそれは違って有村ロミは有村ロミであるとして描いてくれたことに気づけた瞬間にまた泣いた。「愛はどこからきて、どこへ行くのだろう」、このキャッチコピーは恋を知らなかった周太がロミと恋をして日々に帰っていくことを表していたと思っていた。でもそれは違ったのだろう。有村ロミが悲劇の結果生まれ、そして存在意義を見つけて愛内周太に恋をした感情は彼女だけのものであり、比村茜のものでもなかった。そんな彼女を助けるために今度は周太が駆けたのだから。本当に嬉しかった。

確かに伏線はなかったかもしれない。唐突でハッピーエンドに見えるかもしれない。それでもこれ以外の終わり方はアインシュタインより愛を込めてという物語の中でありえないのだ。他人を受け入れることができた周太が最愛の少女を救いに行かないはずがないのだ。言い方は悪いがそこに行きつくまでの戦闘シーンはすべてそのための布石以外の何物でもない。彼が日常を受け入れることができ、世界の中で生きると決め、真理よりも有村ロミを選ぶ瞬間までを描くための物語だ。その中で作中で作ってきた縁を大切にしている。again againで彼が帰ってきた場所は科学特捜部の面々がいる喫茶店であり、5年後のロミを救う物語はもう一度そこから始まっている。その中で憎まれて当然であったはずの須郷の協力を借りて、プライドを崩されながらもミコに助けてもらいながら彼女のために自分の身を犠牲にしようとも掴んだ姿を描いたのがエピローグだ。最後さえ幸せであればいいだけだろうと思う人はいるだろう。だがそれを掴みに行ったことに意味があると筆者は考えている。奇跡のような出来事であったとしてもそれを引き起こしたのは間違いなく愛内周太の意志なのだから。

7.終わりに

最後にこの作品がどのような作品だったのかを簡単に体系化していきたいと思う。

この作品は間違いなく以前書いた記事の中ではセカイ系と呼ばれる作品に位置するだろう。愛内周太の世界を否定するために自分のセカイに閉じこもり、それでも世界を求めようとする。そんな彼を有村ロミが世界に戻そうとするのが本編だった。しかしここでポイントなのは有村ロミ自身は自分を取り巻く別の世界、ひいては傍にいる権利がないと嘆き他者との縁を切ることにためらいのないセカイに残留してしまってる。そんな彼女を様々なのものを犠牲にして彼女を受け入れられる世界に足掻くのがAPPLOCRISISだった。その連れ戻す場所はセカイではなく世界だ。そこにはミコも茜もいる。彼女の両親もいる、科学特捜部の面々だって野上たちもいるだろう。彼女が過ごしながらも自分は存在してはいけないと思って距離を取っていた場所だ。そこにどういう形であれ帰ってきたのだ。その先に不安があったとしても二人の笑顔が全てだ。

だからこそ二人がこの先も新世界で笑って冒険の先の幸せを享受していることを心から願う。いつかそんな二人の断片をちょっとしたSSでもいいので公開してくれることを期待する。

 

2021/10/10 22:54 保坂新